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「虚淵玄」論 

長い長い学芸大学の夏休み、いかがお過ごしでしょうか。僕は3週間のがっこうぐらしを乗り越え、ほっとしているところでございます。
さて、今回僕が取り上げるのはタイトルの通り。作家・脚本家である虚淵玄さんについてです。
この間Twitterで見かけたのが、こちらのツイート。


この世界には自CPの最も自然な結末を考えた結果不幸のどん底に落として落ち着く虚淵系腐女子と
紆余曲折の末爽やかにハッピーエンドで〆る宮崎駿系腐女子と
精神世界とかリビドーを抽象的に描きすぎて本人しかわからない(たまに本人にもわからない)庵野系腐女子とエロしか描かない腐女子がいるから…


はい。まあ腐女子云々はさておくとして、(笑)
ここで僕が注目していただきたいポイントは、 「虚淵玄」「庵野秀明」「宮崎駿」の3人が作る物語についての一般的なイメージが現れているということ。


宮崎駿  → 紆余曲折の末爽やかにハッピーエンドで〆る(ラピュタや千と千尋、ハウルなどほとんどの宮崎駿作品が当てはまる?)

庵野秀明 → 精神世界とかリビドーを抽象的に描き過ぎて本人しかわからない、たまに本人にもわからない(確かにエヴァンゲリオンを観て自分もそう思った…)

虚淵玄  → 最も自然な結末を考えた結果不幸のどん底に落として落ち着く


これだけでもいろいろ議論できそうですがね…
なるほど確かに、一般的なイメージはこの通りかも。と納得していたのですが、ここで思った。
それは、
果たして虚淵玄が描いているのは「不幸のどん底で主人公が絶望する話」なのか?


「信者」と呼ばれるような熱狂的なファンがいる一方で、僕の周りには「アンチ」も結構いる虚淵さん。
僕が虚淵さんの名前を知ったきっかけは有名な『魔法少女まどか☆マギカ』です。リアルタイムで見ていたわけではなく、学芸大学・国語科の某先生が講義にて
「『まどか☆マギカ』は名作。絶対に見るべき。」と猛プッシュされていたため当時やっていた再放送を嫌々観ました。
9話までは正直、「なんだただ暗いグロい怖い話じゃんか~」と流し見してましたが、10話~12話でもの凄いインパクトを残され、確かにこれはすごい!と納得した記憶があります。

それ以降、この人は他にどんな話を書いてるんだろう?という単純な興味で虚淵さんが脚本・構成・原案を務めた作品をいくつか観ました。
『アルドノア・ゼロ』『楽園追放』『仮面ライダー鎧武』。
今は『Fate/zero』の再放送を観ています。まあ、『Fate/zero』に関しては以前、『Fate/staynight』を観るための予備知識として概要を頭に入れてしまいましたが…(笑)

そしてこれらを観た僕の結論はというと、虚渕さんが"描きたい"のは「不幸のどん底で主人公が絶望する話」ではないということ。
じゃあこの人は何を描きたいの?僕の考える答えは、「絶望の中、わずかな希望を信じて戦う人」。
それから、結果的に自己犠牲を払ったとしても世界は救われる、ハッピーエンドが意外にも多いのだということ。

では作品ごとに見ていきましょう。ネタバレを含みます。


『魔法少女まどか☆マギカ』

ほむらは無限ループの中でまどかを救うために戦うも、助けることはできない。自身の限界も近づく。またほむらは繰り返せば繰り返すほど絶望的状況に追い込まれるが、最終的に時空を超越した存在となったまどかがその絶望から救い出す。しかし形は変わって「魔法少女」としての戦いは続く。終盤の概要としてはこのような形でよいかと思います。
ほむらの不幸ばかりが注目されますが、この物語はハッピーエンドであることに意義がある。もちろん戦いは続くんですが、ほむらは救われたわけですよね。
彼女自身にとってはまどかが超越した存在にならずハッピーエンドを迎えることが理想なのだと思いますが、(エゴイズムだなあ…)
観客がどうかはともかく、作者はハッピーエンドを意図してこの終着点を用意している。この意図がある以上は、作者がメインで描きたいのはほむらの絶望ではないと考えられます。
わずかな希望を信じて戦ったほむら、そんな彼女に与えられた救い。これですよね。
叛逆の物語…?知りません。


『アルドノア・ゼロ』

地球と火星、2人の主人公が地球という星(とヒロインである王妃)をめぐって争い、結果的には地球側が勝利。火星側の主人公・スレインは戦争後捕らえられ、すべてがうまくいかなかった絶望に苛まれる。しかし独房から見える空には自由に羽ばたく鳥が…かつて地球人だったスレインは何を思うのか…。みたいな感じでいいですよね?
この作品、前半は地球軍が圧倒的な力を誇る火星軍と戦う「進撃の巨人スタイル」で、絶望の中わずかな希望にかけて戦う人々を描き、後半は互角に戦えるようになった地球軍が火星軍を追い込んでいき(エレン巨人化のようだ…)火星側の主人公・スレインが破滅していくという話だと思うんですね。
まず先述の通り、絶望的な状況下で希望を信じて戦い、地球軍が勝利という明らかなハッピーエンド。いやいやスレインは絶望だよ…という方もいらっしゃるでしょう。
しかしスレインの根本的な希望は、「美しい地球」(とヒロインである王妃の無事)であり、それは独房にいる今もなお、変わらずにある…というスレインの「泣き笑い」で幕を閉じる、こう考えられます。スレインにとっての救いは「美しい地球がある」こと(とヒロインd(以下略)。青空に羽ばたく鳥を見つめる描写は、スレインをただただ絶望で終わらせないための救いと言ってよいのではないでしょうか。


『仮面ライダー鎧武』
実は『まどマギ』に非常によく似ている構成。仮面ライダーご存じの方はブレイドっぽいと言ったらわかりますかね。自己犠牲で自身が希望となる。
変身を繰り返すことで徐々に怪物(魔女と類似)へと近づいていく。そんな絶望の中戦い続けた主人公は最終的に人知を超越した存在・希望そのものになり、地球を救ったのち、救いを求める別の星へと旅立つ…非常にまどかと近い。
他の登場人物たちもわずかな希望を求めるがために、次々といわゆる「闇堕ち」をしていくのですが、最終的には救われます。(ミッチ―とか露骨ですね)
主人公は人知を超えた存在となり、闇堕ちしても希望のために戦った人は救われる…「まどマギ」と同じシステムです。おそらく作者的にもハッピーエンドを意図して作られています。


さあ、ここまで来てご存知の方は思われるでしょう。『Fate/zero』は最後まで絶望しかないじゃん…?希望も救いもないじゃん…?

これは単純に『Fate/zero』が『Fate/staynight』の前日譚であること。これに尽きると思います。
『zero』は少し特殊で、『Fate/staynight』という奈須きのこさんの作品のスピンオフとして、後付けで書かれた作品なんですよね。
つまり、これまで見てきた作品の「救い」に当たる部分は『staynight』でやってくれるのだから、描く必要性がないと判断した、ということなのではないでしょうか。
『zero』の物語は次の世代の主人公たちが救いを与える前の絶望ターンだけを描いた、いわば「俺の屍を越えてゆけ」システム?なのではと。
虚淵氏は『zero』での絶望を含めて『staynight』では(正規ルートで)ハッピーエンドを迎える、という構成にしたかったと考えられるわけです。
Fateという「絶望の中、わずかな希望を信じて戦う」作品がそれほど自分の描きたいものにマッチしていたのでしょう。


ここまで作品ごとに見てくると、 「主人公が不幸のどん底で絶望」することは確かに共通しており、虚淵作品の特徴であることがわかります。
しかし、作者が描きたいのは「わずかな希望を信じて戦う人」であることもまた、共通していると思われます。

僕もペーペーですが趣味で演劇の脚本を書いている者として、『まどマギ』を観て強く共感した部分は今思うと、ここなんじゃないかと思うのです。
偶然ですが、僕も絶望的な状況下で希望を信じて戦う人を、人間の強さ・弱さを書きたいと思って書いたことが多いんですよね。それは決して不幸とか死とか絶望とかグロとかを見せて、ブラックだろ?ニヒルだろ?カッコいいじゃん?とかじゃないんですよね。絶望してる姿いいんじゃ^~とかいう変態的な思考を持ってるわけでももちろんないです。
なんかたまにそういう人いますけど、勘違いしてない?って僕は思ってしまいます。
もちろん、その変態的な魅力を伝えるために書く!ってんならまあ頑張ってとは思いますけど、それって性的嗜好の押しつけみたいなもんじゃね?って。

言い過ぎか。団鬼六先生に怒られるな。


長々と失礼しました。


koduck


2015/10/10(土) 21:41 未分類 PERMALINK COM(1)
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