こんばんは。
かれこれ4時間近く眠れないので
色々考えていて、もう!
これは書くしかないのではないかと
まあかきたくなっちゃっただけなのですけど
『かぐや姫の物語』
このいろんな意味でとんでもない作品について
アニメーターになろうとしている一学生の考えを書きたいと思います。
『かぐや姫の物語』(かぐやひめのものがたり)は、『竹取物語』を原作とした高畑勲監督・スタジオジブリ制作の日本のアニメーション映画。2013年11月23日に公開された。キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」。
日本のアニメ映画としては破格ともいえる、企画開始から8年の歳月と50億円を超える製作費が投じられた。技法面では、『ホーホケキョ となりの山田くん』で導入された、アニメーターの描いた線を生かした手書き風のスタイルが本作でも使用された。加えて、背景も動画に近いタッチで描かれ、両者が一体となり「一枚絵が動く」ような画面をもたらしている。(Wikipedia)
という感じの作品です。
映画の場面は大きく分けて三つ
①山での暮らし
②都での暮らし
③月へ帰る
なのですがライムスター宇多丸さんもオタキングさんもおっしゃる通り、
①≒生きる喜び
②≒生きる醜さ
③≒死
と言って通ると思います。
つまり生きるって楽しい!って素直に喜んでいた子供時代と
都会の社会で制約された生の汚さ醜さと
それ全部含めて死んだらすべて終わりじゃないか
という構成です。
僕以前映画評論家の町山智弘さんの話を聞いて、フランスの作家サルトルの『嘔吐』と言う本を馬鹿みたいに読んだのですが
その主人公アントワーヌ・ロカンタンが対面するのが正に上に書いた問題でした。
つまり何しても結局死ぬんだから意味ないじゃないか!みたいな単純に言えばこういうことです。
そして『嘔吐』の最後生きる目的の無いロカンタンが見つけた答え(らしきもの)は「本を書く事」だったのです。
つまり何かを作る事。生み出す事!
さておき、
『かぐや姫の物語』に話を戻しますと、
映画は最初媼(宮本信子)の語りで始まりますよね?これはどういうことか。
つまり『竹取物語』を書いたのは媼なのではないか、という事ではないでしょうか。
ある女御が(どこの誰でもいいんですが)身ごもり可愛い女の子を産み、まるで姫のように可愛がって大事に育てたが五年と経たず死んでしまった。
その女御が愛するわが子との五年間の事を、自らの願望を含めてファンタジー小説にしたのが、『竹取物語』だとしたら…?
お分かりいただけただろうか!!!!!!!
この女御はわが子の死によってロカンタンと同じ実存の問題にぶち当たったわけです。
そしてこれもまたロカンタンと同じく『書く事』をしたわけです。
そして高畑勲が1000年の時を経てそのメッセージを受け取り、正にその女御の想いと『姫のように可愛いわが子』をアニメーションとして具現化したのが『かぐや姫の物語』だとしたら!
お分かりいただけただろうか!!!!!!!!!!!!!!!!!!
奇跡過ぎる!!!すごすぎる!!!
果てしない…。なんてこった…。
捨丸の家は木を加工する一族です。かぐや姫が最後の帰郷をする時に、おそらく捨丸一族が戯れで作ったと思われる木の小さな人形のようなものを拾い上げる。そこに捨丸が現れ、ジブリ的快感の飛翔シーンがあり、しかし一人幻から覚めた捨丸だけが残される。
あの人形は『こけし』のようなものなのでは?こけしは小さな子供の供養のためのものらしいですが…
うーん邪推が止まりません。(この辺は金曜ロードショーを観た僕の父が語っていた部分です。父の父で僕の祖父はこけし職人でした。)
まだまだ言いたいことはありますが…
そしてみなさん作画ですよ。
この映画の作画技法(線を敢えてクリーンナップせずラフのような味わいで動かす)を取り上げて、
芸術的!深夜テレビのアニメとは違う!と言う人多いですが
日本で見てるアニメの作り方の基礎は全部高畑勲さんとその仲間たちが作った方法論ですからね!
つまりこの映画の技法は東映長編から続いてきた商業アニメーションの歴史の先端であり金のかかる応用なわけですから
別に芸術的でもないとぼくは思います!(芸術って言うのはもっともっとわけのわからない人たちのものだと思う)
ラフ原画の段階の絵って言うのはものすごく動いてる実感があるんです。線がまだ閉じていなくて重ねて何本も「こっちか?」「いやこっちか?」と引かれている線はすごく動いている感じがします。
まさしく「アニメート=命を吹き込む」をしている段階の絵です。生まれた!楽しい!と言う段階の絵でして、複雑な気持ちですがこの後クリーンナップをしたり処理段階の事を上に書いた②生きることのつまらなさ
ととらえるとしたら…
つまりこの映画で最後に出される答え、楽しいことも辛いこともあるけど、死んじゃったら終わりじゃん!生きていたいよ!というメッセージを
技法の形で最初から見せていたということにはならんでしょうか!
そして前述した仮説と合わせるとアニメーションを作る事、生きて生み出すこと自体を全部包んで肯定している!!!(のか!!!???)
何と言う映画だ!!!すごすぎる!!!!!傑作すぎて眠気がやってこない!!!!!!!!
僕は普通のテレビアニメの作画も大好きです。この技法は『かぐや姫の物語』だから(ジブリで高畑勲だからってのも…)できたことです。
それから日本初の技法だといわれますがアニメミライの「しらんぷり」という作品がやってます。こちらも良い作画でぼくは好きです。
(まあこの技法では普通のテレビアニメの何倍ものアニメート以外の作業が生まれていますから、結果的にそこは欺瞞が残ってるとは思います。)
とはいえこのように内容も技法もすばらしい『かぐや姫の物語』ですが
ただ!!!一つ致命的な欠陥があります。
それは、売れなかったことです。興業が振るわなかったようですね。ということは客が入らなかったという事です。これはいけない。まあ普通に駄目だけど、この映画の場合、
生きる事を肯定する(せざるを得ない)というメッセージなんでしょ!?
だったらなるべく多くの「生きてる人間」届けるべきで、届くような内容(映画の見た目)に すべきだ!!!
これは見る側が幼稚だから伝わんないんだとか、見ればわかるんだとか、そうじゃないと思います。
上に書いたようなこと一回見てわかる人が何人いる?!人に説明できないよ!
そういう意味では似たテーマの映画(だと勝手に僕が思っている)『マインドゲーム』の方が僕は好きですね。というか『マインドゲーム』自体がこんな対比で語るような作品じゃないすごいアニメなわけですけど。
つまり芸術性を少し捨ててでも、一定の観客層を言い方は悪いけど「釣る」必要があったと思います。(マインドゲームが釣ってるとかじゃないです!)
それが商業アニメーションなんじゃないのでしょうか?
言うは易しなのですが。
しかし間違いなく日本のアニメーションのある意味集大成的な、そして「作家」(と一口に言っていいのかわからないが)に対する映画としても金字塔的作品だとも僕は思います。
ただちょっとずるいなと思いました。こんな技法やってみたいです。描きたかったです。悔しい。
やっと眠くなってきました。
読んでくれたもの好きな方、どうもありがとうございました。
苺
追記
この前もつ社員が言っていた『四月は君の嘘』最終話ののBパートですが、
最初見たときは、確かに上手くできてるし切ない気分になる演出で感動したものの
「まあこういうSFあるよね」ぐらいの冷めたものだったのですが、
その晩にそのBパートの映像の夢を見て、朝ものすごく切ない気持ちになって目が覚めました。
実は深くえぐられていたわけです。一回しか見てないのに…。それだけ印象的なBパートだったということでしょう。
最終話の半分だけでこれだけやられるとは…。
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